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January 19, 2011

スキー三国志

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今年はレルヒ少佐が来日し日本のスキーの歴史が始まってちょうど100年になる、残念ながら近年は衰退が激しいスキーだが残っていたスキージャーナルが発行されていた1960~70年代はまさにスキーの黄金期、冬になると一億総スキーヤーという今では想像もできないような盛り上がりを見せていたものだ、今に比べたらスキー場の施設もお粗末だし、道中の列車や道路事情もひどかったにも関わらず、大勢のスキーヤーが雪山へ押しかけて、どこも大混雑だったのだ。その当時スキージャーナルには「スキー三国志」と題して我が国のスキーの歴史を小説風に連載していた、今回見つけたのは1969年3月の連載分、それは太平洋戦争中のスキー事情を描いた部分でとても興味深く読ませてもらった、特に軍隊にいた筆者の体験談はなるほどと思わせる迫力がある、こうした辛い時代があったからこそ戦後の一時代、スキーがあれだけ盛り上がったのかもしれない、この文章を読んだ方も記憶に残っている人も恐らくいないであろうから、ちょっと大変な作業だったけど3月号の全文を転載させて頂くことにした、ぜひ当時の状況を知る為にもじっくりと読んでもらいたい、しかし我ながら読めない漢字が多くて参りました。

「いわゆる戦時スキーについては、随所で述べてきた。斥候競走、伝令競走、これは軍隊ばかりではなく、インカレにも登場したし、中学校、青年学校生の間でもさかんにおこなわれた。産業人の団体競走なども、わずかながらも荷を背負っており、明らかに戦時色の反映であった。スキーは、総じてリクリエーションや競技のためではなく、軍隊や雪国の若者の鍛錬用にもちいられるようになり、満州の関東軍のごときは、スキーの機動隊を組織し、実戦にそなえて厳しい訓練を重ねていた。スキーが、こうなってしまうと、都会人にとって、スキーは、日々に縁遠い存在となっていった。第一、乗車券がなかなか手に入らない。やっと手に入れても列車内は満員スシ詰め、長いスキーと大きなザックを持って、遊びにいく姿を見られては、下手をすれば袋叩きにさえ会いかねない。こんなとき、東京鉄道局では、毎週末、岩原まで、スキー列車を運転してくれた。これは東京のスキーヤーにとっては、なんとも有り難いことであった。しかし、スキー列車と云っても、今考えるような愉しいものではなく、乗客は黒一色、お通夜のような静けさで車中を座り続けた。スキー列車は陸軍戸山学校の教官が引率していた。スキーヤーたちは、岩原に着くと、まず雪の上で、銃を構え、寝射ち、膝射ちの反ぷく練習をやらされたのち、やっと思い思い滑ることを許されるのであった。教官と云っても、威張ることだけを知っている程度の低い下士官が多く、ともすればビンタが飛んだ。昼になっても温かい食事があるわけでもなく、スキマ風だらけの小屋のなかで、ボソボソの配給米のムスビを頬張るくらいが関の山であった。
Ski
 こんなふうにして18年のシーズンを送ると、4月には体育会内に「戦技スキー審議委員会」と云うのが設けられ、いよいよ本格的に戦技スキーの研究と普及がはじめられた。戦技スキーだから、いたしかたないことだが、すべて陸軍が音頭を取り、主役をつとめたもので、委員の顔ぶれも、3人の陸軍軍人が実権を握り、他に自分たちに都合のいい厚生、文部などのお役人や学識経験者とやらが多く、14名中、スキー人は、わずか2名にしぎなかった。スキー人としては、もう陸軍の云うなりになっていなければ、まったくスキーができなくなると云う危険な時代であったし、スキーができるならば、どんな不合理な横車にも耐えなければならなかった。この委員会の使命は、「日本のスキーに関し、一元的に指令を出し得る最高の機関であり、同時に一般スキーと戦技スキーに関する訓練組織、ならびに訓練階梯を立案し作成することを任務とする」と云ういかめしいものであった。委員会は、第一に、スキーの長さを規定した。現在軍用スキーは、1メートル85という短いものであった。しかし、陸軍の云い分では、これが実用且実戦的に最良のものであるという主張であった。スキー人側にとっては、まさに爆弾宣言である。しかもこの規格スキー以外一切のスキー製造禁止し、持っているものを履くこともならぬ、と云う。小川勝次を代表とするスキー人はせめてもう10センチ長くしてほしいこと、そして少数のジャンプ用の製造と使用を許可してもらいたい旨を述べた。陸軍側も若干折れて、全スキーの3分の1だけは、1メートル95のスキーを製造してもいいし、またジャンプ用の件も承認したが、ディスタンス競技は、従来のランナー・スキーの使用はまかりならぬ。すべて規格スキーでおこなうようにとの達しであった。スキー人は暗然とした。戦前のディスタンスは、事実上の終焉であった。
 委員会は、神宮大会の内容についても種々にとり決めた。委員会の決定と云っても、陸軍の一方的なとり決めにすぎず、誰もこれに歯向かうことはできなかった。それによると、従来どおりの軍隊競走以外は、重量運搬による雪中行軍だけがとりあげられ、ジャンプもディスタンスも、まったく議題にのぼらなかった。開催地は、大鰐か野沢と決定されたが、輸送や食糧事情から、県内選手だけの大会と云うことに決定され、会期も、たった1日だけ、文字通り形だけの大会であり、スキー人たちは、いちように云い知れない暗い気持ちになった。しかし、委員会の決定が4月、19年の大会まで、10ヵ月の日時がある。その間に、時局がどう変わるかわからない。悪いことばかり考えないでもいいではないか。大手をふって、走り、飛び、曲げることのできる時がくるかもしれない。人々は、儚なくも、そんな夢を抱いた。しかし、時局は日増しに逼迫していくばかりであった。日常生活は、厳しく暗くなっていった。神国日本は敗れることはない。人々は熱病のようにそう考えていた。しかし、その信念にようやくひびがはいりはじめた。あせりが出はじめていた。
 昭和18年12月、一切の学生の徴兵猶予は廃止された。日本中の大学生、高専生で、いやしくも五体満足なものは、ペンを銃にかえた、学窓に残ったものは、片手、片足、独眼等々、或る教授は、教室はお化け屋敷だ、と云った。学生ばかりではなく、軍隊以外に、五体満足な若者の姿を見ることは、きわめてすくなくなった。
 そんななかに、昭和19年のシーズンも、やはりスキーは存在した。1月6日から11日まで、菅平で、「戦技スキー中央講習会」と云うのが開催された。講習会には、各方面から、約200名の講習生が参加した。会は、戦技スキーの講師養成が目的であった。参加者は、体育会スキー部会、青年団、在郷軍人等雑多で、これらの人々をまず講師として養成し、養成された講師は、雪国の壮丁(徴兵適齢期の若者)に戦技スキーの基礎を教える任務があった。講師側は、陸軍戸山学校、体育会スキー部会など35名で、最高責任者は小川勝次であった。講習は、勿論、スキーの滑りばかりではない。これはむしろ二の次で、雪中幕営、雪中炊さん、救急法、夜間行進、橇の曳き方など、毎日はげしい訓練が続けられた。
 最後の日は、四阿山に登った。講習生、講師、地元有志を加え、総勢250名に余る大パーティーだった。四阿山は、標高2330メートル、菅平周辺の最高峰であり、記録によると、彼等は午前3時に出発、11時山頂着、8時間の登高だった。四阿山と云えば、現在でも、冬は簡単に登れる山ではない。アプローチが長く、おだやかな見かけに比して、とりついてみるとひどく嶮しい。スキー技だけでは駄目である。スキーの山と云うよりは、冬季登山の対象とする山である。そこへ彼等は三貫目の荷を背負い、ストックの外に竹槍まで持って登った。規格スキーで、シールも満足になかったにちがいない。かなり強行軍だったことは想像に難くない。それにしても冬の四阿山に、250人の大パーティーが登った事は、史上空前のことであろうし、今後も容易にないであろう。
 そして、19年のシーズンの、スキーの目星い催しは、この講習会の外には、ついになにもおこなわれなかった。20年のシーズン、無雪地のスキーヤーで、果たして幾人が、スキーに乗ったであろうか。事態好転の儚い希望も仇となり、19年の夏ごろを境として、世はまさに地獄を化していった。11月には、東京に空襲警報が発令された。これは二回目のことである。一回目は、開戦して間もない一七年の花の頃で、早稲田附近に焼夷弾が落ち、数軒の民家が焼かれた。しかし、このときは誰も深刻には考えなかった。なにかの拍子に、敵の奴まぎれこんできたにちがいない、と。しかし二年後の19年のときには、みんな顔色を変えた。いよいよ来るべきものがきた。足もとに火がついたのである。
 こんななかで、もうインカレとか神宮大会とかは、遠い昔、遙かな国の物語となってしまった。スキーどころではなくなっていた、相当にキの字のつく連中さえもが、1年前に1メートル85の短スキーに腹を立てていた自分を、むしろ空々しく見かえすようになった。そんなことはどうだっていいじゃないか。どうせ明日知れない身である。日本の国そのものが、明日どうなるのかわからない。莫迦々々しいことだ。
 戦局は、ますます不利になった。転身、転身、撤退、撤退、さらに玉砕と続いた。東京上空はB29の支配下におかれた。3月に、下町一帯に大空襲があり、4月、5月と山手が焼かれ、東京はまったく灰燼、瓦礫の巷と化した。そして多数の生命が失われた。人々は寒空に住むところもなく、焼トタンで囲いを作り、半地下の穴居生活を送る者さえ多かった。焼け残った家は、引揚者の仮眠所さながらの混雑ぶりであった。水道もとまり、燃料もなく、風呂に入ることも容易ではなかった。身体も衣類も汚れ放題、大学教授も会社重役も、いちように虱になやまされ、それの媒介する発疹チフスが蔓延した。食うものもなく、真っ黒いコッペパン一個を水で流しこんで夕飯にかえなければならず、鉄路の土手の雑草まで伸びるそばから摘みとられていった。
 このころになると、もう敗戦は、明らかであった。そして、終戦までの数カ月の間、日本の誰にとっても、ほんとうに堪え難い長い泥沼だったのである。いつか、日本の一番長い日、とか云う題で、終戦当日がスクリーンの上に再現され、話題を呼んだが、事実はあんなカッコのいいドラマチックなものではなかったのである。そして、なによりその日にいきつくまで、人々は、手足をもがれ、盲目にされ、巨大なウジのように、汚物のなかをのた打ちまわっていたにすぎない。そこにはドラマもなければなにもない。第一人間さえなかったのである。
 それらの日々、日本人がどうして生きてきたか、スキーと縁がなくとも、やはり日本人のこれだけ重大事を全く語らずに済ましてしまうわけにもいかないだろう。手とり早く、私の体験をほんの一部だけを述べて、若い世代の方々には当時を想像していただきたい、と思う。
 私は、各地を転々としたのち、20年には甲府の部隊にいた。そして、東京が灰になったころから、衣食にかけては、別世界だった軍隊も、急に逼迫してきた。まず食い物がひどくなった。食事は、米は2・3割程度で、あとは高粱、豆粕、得体の知れない乾燥野菜等の雑食、それも生煮えで、兵隊たちは、みんな下痢になやみはじめた。昼は代用食、ひどいときは、小さな乾パン2、3個ですまされた。
 食い物どころか、肝心の兵器さえなかった。歩兵部隊は、三八式銃と云って、明治38年製造になる小銃を使用していたが、20年の春ごろになると、そんな銃は、部隊中、どこを探しても一挺もなくなってしまった。三八式にかわって九九式と云うのが来た。皇紀2599年、すなわち昭和15年製の銃である。明治より当然新式のはずだが、これが、事実はゴミのような粗悪品であった。射撃場で、等身大の標的を狙って、十発射って一発弾痕が見つかればいい方で、九発はまったく行方不明、しかも、この九九式さえ、3人に一挺の割合しかなく、帯剣もおなじくらいの数しかなかった。外出のときは、とにかく剣だけは吊っていかなければならない。しかし、帯剣は、外出許可証を貰った兵隊の数に足りない。剣にありつけず、外出にあぶれた兵隊は、やむなく内務班にいて、初年兵を集め、無理難題をふっかけては、腹いせのビンタでもくれている結果になった。若い入営兵たちは、時代が時代だけに、栄誉と思い、胸を張って営門をくぐる者も多かったが、いざ入営してみても、銃も剣も与えられず、毎日土方ばかり強いられ、その合間にわけのわからないビンタを食う。食器までなく、裏の竹藪からモウソウ竹を切ってきて、飯や汁を盛った。新兵たちは、初めて敗戦を身近に知り、なによりも幻滅を感じて、春ごろから逃亡が相ついだ。6月になると、兵舎をこわし、山中に疎開する作業がはじまった。その作業の真最中、7月7日、七夕の夜、甲府市内は全焼した。 婦女子と老人しかいない街は、焼夷弾にまったく無抵抗だった。彼等は、今に軍隊が助けにきてくれるものと信じていた。火は朝まで燃え続けたが、軍隊はついに出動しなかった。このことは市民の不興と不信を買った。市民は軍隊にそっぽを向くようになった。
 8月15日、終戦の日、あちこちで書類が焼かれた。正午、玉音放送の数時間後には、すでに厩の馬が数頭持ち去られていた。4、5日してから復員がはじまった。多くの兵隊たちも将校も、敗戦にはそれほどの感慨も湧かなかったようである。ただ、いちように軍用物資の持ち出しに汲々としていた。幹部たちの或るものは、大きく動かしたであろうし、一般の兵隊は、持てるだけのものを両手に持ち、背に負い、亀の甲のような姿になって営門を出た。
 外国の占領下、云う日本人にとっては考えても見なかった状況下におかれたが、平和が帰ったことは、なんとしても嬉しかった。それにしても残念なことであった、今更云わずもがなの愚痴にすぎないが、おなじ負けるにしても、ずいぶん拙い負け方をしたものである。どうせ負けるとわかっていたはずだ。人間潮時が肝心である。もう半歳早くあきらめていれば、どれだけ多くの生命と財産が守られたかわからない。それに多くの地方都市が被害にあったのは、7月になってからであるし、ソ連が参戦し、広島、長崎に原爆が落ちたのは、みんな8月のことである。10日間の判断の躊躇が、歴史的な惨劇を惹きおこした。日本国民は人がいい。この惨劇の責任者の追及を国民の手で、誰もやろうとしなかった。
 しかし、ものは考えようである。とにかく敵の上陸だけは避けられ、平和が帰ってきた。過去は云うまい。スキー人たちは、いち早く集まった。11月20日、場所は焼失をまぬがれた岸記念体育館。小川勝次の肝いりで、在京の15人が顔を揃えた。終戦から3カ月目、他のスポーツ団体のことは知らないが、当時の諸状況を考えると、かなりの早業と云っていいだろう。むろん話題の中心は今後のスキー界のすすむべき道、具体的に、インカレ、全日本などの開催の見通しなどについて真剣に語り合った。そして、12月1日には、戦前どおりの「スキー連盟」が復活した。
 21年のシーズンは、皮肉なことに、非常に雪の多い冬であった。しかし、都会人は誰もがスキーをやる余裕がなかった。輸送、食糧事情は、戦争中にもまして悪くなっていた。治安も乱れていた。生活を確保し、治安を維持するための大義名分がなくなってしまったのである。一億が烏合の衆と化した時代であった。鉄路は疲れ果て、客車の窓は破れ放題、ドアには、横木を2,3本打ちつけてある始末。それでも足りずに無蓋貨車が客車の代用となって遠く九州までも人を運んだ。それでも第一に進駐軍、第二に復員兵、他は買出しの闇屋等々、肉親の死に目にさえ会えない状態だった。スキーをかついで、・・・・・まったく冗談ではない話だった。にもかかわらず雪は降りしきる。
 私は9月に復員した。家は運よく焼け残った、冬がきて、私は、なにもかも忘れてスキーがしたくなった。2月に東京にも大雪が降った。私は物置に入り、荷物の山をかきわけ、やっと一台のスキーと古靴を探し出した。スキーは、イタヤ短板のランナー用で、ベルゲンダールがついていた。思い出してみれば、10年も前に札幌の久慈運動具店で買ったものである。都市対抗久慈賞の久慈次郎さんの店である。グランドホテルの筋向かいにあった。けっぱれよ、と久慈さん自身が笑顔で手渡してくれたのが妙に有難かった。チョビ髭がとても印象的だった。私の家は当時目黒駅に近いところにあった。5分ほどのところに、今の電気大学、当時の目黒無線電信講習所があり、一帯は赤松の生い茂る丘陵になっている。そこは、大雪で、あたかも一大ゲレンデと化していた。私は勇躍した。いくらかよじれたスキーで、松林の間の坂を登ったり、降りたり、暗くなり、ふくらはぎが痛くなるまで、飽きずにスキーを履き続けた。
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 その年の3月2、3日、札幌で、北海道スキー選手権が開催された。全道から集う者、420名、戦前のインカレ、全日本の覇者も多く顔を揃え、なかなか賑かな大会であった。やはりスキー王国北海道、スキーの復活も一番早かったわけである。
 3月10日には蔵王に滑降競技会があり、また野沢では、「基礎スキー講習会」などか催された。10月17日は、初の代表委員会が開かれ、連盟会長に小島三郎、副会長、小川勝次、専務理事、竹節作太、以下、理事、監事、技術委員等の任命があり、スキー界は、いよいよ復興の軌道を歩みはじめたのであった。
                                 作:瓜生 卓造 絵:松沢 暁
(SKI journal 1969,3より)
 


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